高麗浪漫学会通信  第11号 

高麗浪漫学会通信  第11号 

高麗浪漫学会通信  第11号                       2016年3月15日

編集・発行 高麗浪漫学会
〒350-1231 埼玉県日高市鹿山283番地5(すみや電気2F)
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高麗郡の遺跡に関する新聞記事2件相次ぐ!

本年の2月と3月に、高麗郡の遺跡に関する興味深い新聞記事が相次ぎ掲載されました。
1つ目は、2月2日付・朝日新聞:埼玉版「さいたま風土記」として、川越市(笠幡)と日高市(高萩)の市境にはしる圏央道の地の「光山遺跡・上猿ヶ谷戸遺跡」に関する記事です。圏央道建設時(1989年頃)に、7世紀後半の大型住居跡や墨書土器、倉の鍵等が発掘され、高麗郡建郡以前の拠点施設として注目されるべきかとの記事です。2つ目は、3月2日付・埼玉新聞の日高市「捨石遺跡」から、厨(くりや)の文字が書かれた墨書土器が出土したとの記事です。1995年に出土され、昨年11月の赤外線撮影で判明したとの内容で、厨は郡役所を形成する施設であるため、高麗郡家の所在を知る重要な発見としています。記事のコピーが欲しい方は、事務局まで。       (高麗浪漫学会事務局:山田英次)

《歴史コラム》

           高麗人の足跡5 池や屯倉にかかわった高麗人 (大和国)

高麗浪漫学会理事 赤木隆幸

『日本書紀』には、応神天皇の時代に高麗人等の渡来人を導入して韓人池(からひとのいけ)を造ったことが記されています。恐らく、池の築堤に渡来人たちがもっていた敷葉・版築工法などの当時の最新土木技術が使われたものと思われます。『大和志』城下郡条には、「韓人池〈唐古村、今柳田池と呼ぶ。古歌に有り〉」とあり、韓人池は現在の奈良県磯城郡田原本町にあったとされます。ただし、応神天皇の時代に付会させている可能性が高いため、実際に韓人池がいつごろ造られたのか定かではありません。

『日本書紀』応神7年秋9月条
七年の秋九月に、高麗人・百済人・任那人・新羅人、並びに来朝せり。時に、武内宿禰に命じて、諸韓人等を領いて池を作らしむ。因りて以て、池を名づけて韓人の池と号す。

また、欽明天皇の時代には、高麗人を田部(たべ・耕作に従事する部民)と為して高市郡に小身狭屯倉(をむさのみやけ)を置いたとあります。「むさ(身狭)」は「みせ」の訛音で、「見瀬丸山古墳」で有名な「見瀬」という地名を指した言葉です。つまり、現在の奈良県橿原市見瀬町には高麗人が関わった屯倉があったことになります。

『日本書紀』欽明17年冬10月条
冬十月、蘇我大臣稲目宿禰等を倭国の高市郡に遣わして、韓人大身狭屯倉〈韓人と言うは百済なり〉・高麗人小身狭屯倉を置かしむ。紀国に海部屯倉を置く。〈一本に云はく、処々の韓人を以て大身狭屯倉の田部と為し、高麗人を以て小身狭屯倉の田部と為す。是れ即ち韓人・高麗人を以て田部と為す。故、因りて屯倉の号と為すなりと云う〉。