【報 告】高麗郡と常陸国との深い関係に、思いを馳せ 古代遺跡を巡る 10/12(水)

【報 告】高麗郡と常陸国との深い関係に、思いを馳せ 古代遺跡を巡る 10/12(水)

 2019年に上野国から始まった「渡来文化の歴史を巡る旅シリーズ 古代渡来文化遺跡を巡る日帰りバスツアー」は今年で4回目、10月12日水曜日、いざ常陸国へ。

お馴染みの藤交通さんの藤色のバス(ドライバーは原さん)

 本企画は、716年に建郡された高麗郡に移住してきた東国七国(駿河・甲斐・相模・上総・下総・常陸・下野)の古代渡来文化遺跡を訪ねようと、古代遺跡の宝庫・上野国を加えた八国を巡る、言わば「大人の修学旅行」? 目的は遺跡見学なので、道の駅に立ち寄ってもトイレ休憩のみ。そして遺跡がある場所は、大型バスが入れないところばかり。今回も、目的地の手前でバスを降りて歩くことに。

 今回の常陸国訪問の主な目的は、高麗郡の郡寺であったと考えられている「女影廃寺跡」から出土した軒丸瓦が、「新治廃寺跡(筑西市)」と同范(同じ型からつくられた)であることから、寺院跡や本家?の瓦を見ることです。二つ目は、常陸国の中心地だった石岡市を訪ね、常陸国分寺跡や常陸国分尼寺跡(いずれも石岡市)を見学することです。尼寺跡は公園として整備されています。

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 今回は、前回より30分早く出発。7:00に高麗神社を出て、高麗川駅、坂戸駅を経て常陸国へ。天気が少し心配でしたが・・・

 最初に訪ねたのが、新治廃寺跡と新治郡衙跡です。現地には、案内と解説をしてくださる常総古文化研究所所長の大谷昌良(おおやまさよしさん)さんと地元の皆さんが出迎えてくださいました。大谷さんは、合併前の協和町教育委員会で発掘調査をされてきた方で、退職された今も遺跡や遺物の保存活動に尽力されています。

私たちのために雑草を刈り取ってくださっていた
常総古文化研究所所長の大谷昌良さん
新治廃寺跡は、国道50号線(トラックが見える)の脇、北側にある

 新治廃寺跡(国指定史跡)は、古くから土壇や瓦の出土が知られ、大正10年(1921)に重要性が説かれます。昭和14年(1939)に本格的な発掘調査が行われました。現地を歩くと、礎石が整然と並び、東塔や西塔、金堂や講堂跡が確認できます。東塔には心礎の礎石が残され、塔の大きな心柱を支えていたことがわかります。早くから遺跡の重要性をとらえて、地元の人々が大切にしてきた証として、大正以来ほとんど変わらぬ風景とともに、古へと思いを駆り立てます。

礎石が整然と並ぶ金堂跡は、小さな丘(土壇)になっている
大谷さんは詳しく説明してくださった
見事に礎石が残る遺跡を見ながら詳しい解説を聞くと理解が深まる
手前が東塔跡、その奥(東側)が金堂跡になる
中門付近から見た金堂跡(大きな木が目印)、右に東塔跡、左に西塔跡がある。金堂跡の後ろに講堂跡もある

 続いて、新治郡衙跡(国指定史跡)へ徒歩で向かいました。一面に広がる畑の先には筑波山がそびえています。畑や田んぼの畔などに礎石が残されています。昭和16年(1941)と18年(1943)に全国で初めて発掘調査された郡衙遺跡で、倉庫群と庁舎群合わせて51棟におよぶ遺構が確認されました。

新治廃寺跡から500mほど北に行くと、畦に新治郡衙跡の碑がある。(正面奥は筑波山)
1300年前の原風景を見ている感じ、は大げさ?
詳しく説明してくださる大谷さん
みな熱心に聞き入って
メモを取りながら聞く人も
道端(畦)に残る礎石を見つけた

 最後に、藤田さんのお宅の蔵を訪ね、出土品を見学。今回一番の目的、「女影廃寺と同范の瓦」を見ることができました。大谷さんが蔵の表に並べておいてくださったおかげで、じっくりと観察することができました。藤田さんには、大勢押し掛けたにもかかわらず快く見学させていただき、ありがとうございました。

出土品は、藤田さんのお宅の蔵に収蔵されている
これがあの瓦・・・
手に取ってじっくり観察

 事前にバスの中で、日本高麗浪漫学会の須田勉会長から説明を受けていましたので、「これがそうか!」と、皆さん。この周辺地域に居住していた高麗人たちが、1300年前の高麗郡建郡のときに移住したことを直に感じ取った瞬間でした。

 大谷さんは、参加者の皆さんからの様々な質問にも答えてくださり、また地域の皆さんとも短い時間でしたが交流することができました。

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 新治廃寺跡をあとにして、筑波山へ。レストハウスでの昼食後には、ロープウェイで女体山頂上駅へ。いつもは遠くから筑波山を見ていますが、今日は逆に筑波山から常陸国、さらには関東平野を見下ろしました。曇りで遠くが霞み、少し残念な眺望となってしまいましたが、晴れていれば東京スカイツリーや富士山もくっきり見えるとのことでした。

筑波山ロープウェイに到着
晴れていれば、スカイツリーや富士山も。残念

 午後は、石岡市へ移動。まずは、常陸風土記の丘へ。なんだか天気が怪しくなってきました。時折雨がぽつぽつと落ち始めます。

 ここで、石岡市教育委員会文化振興会課長補佐の小杉山大輔(こすぎやまだいすけ)さんと合流しました。風土記の丘には、遺跡展示室があり、石岡市内の3つの国指定史跡やこのあと訪ねる特別史跡の常陸国分寺跡や尼寺などの史料が展示されています。

 小杉山さんは、丁寧にひとつひとつ説明してくださり、いかに常陸国、特に石岡市周辺が重要な場所だったかを解説されました。舟塚山古墳は、群馬県の天神山古墳に次いで、東日本で2番目の大きさだそう。中央との関係がいかに深かったかうかがい知ることができました。また、数々の墨書土器や漆紙文書も展示されており、当時を知る貴重な資料となっています。皆さん熱心に小杉山さんの説明を聞いていました。

石岡市内の遺跡からの出土品がわかりやすく展示されている
常陸国の中心だっただけに、多くの重要な遺跡が残されている
時間が限られた中でも、多くの遺物の説明をしていただいた

 常陸風土記の丘から、常陸国分尼寺跡へ。

国分尼寺跡(特別史跡)は、一部復元されるなど、きれいに整備されていました。中門や金堂、講堂跡、さらにその奥に建物跡があり、僧房や食堂と考えられています。小杉山さんによれば、柱の本数から部屋数を割り出し、尼僧の人数を考えると一部屋2人として10人ほどが生活していたのではないかとのことでした。柱跡を見ながらこんな話を聞くと、尼僧たちが生活する様が頭に浮かんできますね。

整備された常陸国分尼寺跡
小杉山さんには、説明板にはないことまで解説いただいた
礎石が残されている
頭の中をフル回転させて、尼僧の生活を思い浮かべる

 そして今回最後に訪ねたのが、常陸国分寺跡(特別史跡)です。今も国分寺としてお寺があるのですが、境内を入ると金堂跡や講堂跡、回廊跡など至る所に建物跡が残っています。また、大きな塔の心礎が残されていますが、ここに移されたもので、9世紀後半に再建された塔跡が寺の東側の住宅地で見つかったそうです。令和4年度に追加で特別史跡になるとの話でした。

まず、国分寺を入るところで中門跡
境内を奥へと進むと金堂跡や講堂跡を見ることができる

 午後5時、あたりは薄暗くなり始め、さらに雨も降り始めてきました。午後、石岡市内をずっと案内してくださった小杉山さんとお別れし、バスは帰路、武蔵国高麗郡へ。皆様大変お疲れさまでした。

今回参加された皆さん(常陸国分尼寺跡にて)

 今回も、一つ一つが濃い?見学となったのではないでしょうか。新治廃寺跡などでは大谷さん、石岡市では小杉山さんに案内や解説、さらにはバスの誘導までしていただき、本当にありがとうございました。お陰様で、高麗郡とのつながりや常陸国と中央との関係の深さも知ることができました。

 また、イーグルトラベル(株)の大澤さん、(有)藤交通ドライバーの原さんには、今回も大変おせわになりました。特に、原さんには安全運転で連れて行ってくださり、感謝しております。

 さて、来年は・・・『上総国』か、はたまた『相模国』か。皆さんお楽しみに~