高麗浪漫学会通信 第2号
高麗浪漫学会通信 第2号 2014年6月15日
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来る7月5日(土)に高麗浪漫学会第2回定期総会ならびに公開歴史講演会が開催されます。とりわけ2014年が広開土王碑建立1600年の節目であることから、公開歴史講演会では東京大学名誉教授の武田幸男先生をお招きして広開土王碑についてお話しいただくことになっております。つきましては、広開土王碑の概要ならびに研究史のまとめを以下に示しますので、事前にお目通しいただければ幸いに存じます。 (高麗浪漫学会会長 高橋一夫)
《公開歴史講演会に先立ちて》 高句麗広開土王碑
1、概要
高(こう)句(く)麗(り)の第19代国王広(こう)開(かい)土(ど)王(好太王)の功績を編年的に叙述して記された石碑。高句麗の旧都輯(しゅう)安(あん)(中国吉(きつ)林(りん)省集(しゅう)安(あん)県)の郊外に立ち、高さは6.34m、各面の幅は平均1.59mと巨大で東アジア最大の墓碑。広開土王の死後2年(414)、遺体を山稜に遷し葬ったときに、王の勲績を銘記して立てられました。碑の存在が知られたのは十五世紀初めごろまでさかのぼりますが、碑文が読まれるようになったのは1870年代以降のことです。
碑文は三節より成り、第一節(約6行)は始祖(鄒牟(チュモ)王)から広開土王に至る簡略な歴史を叙し、広開土王の一代を総記して建碑の由縁を述べます。第二節(約22ないし23行)は永楽(えいらく)元年(391)から22年に至る王の外征事実を、年代を追って詳記。第三節(約16行)は「三百三十家」にのぼる「守墓人烟(えん)戸(こ)」を出身地別に記し、烟戸の永存を期しています。
「辛(しん)卯(ぼう)年」に倭(日本)が海を渡って「百済(くだら)・新羅(しらぎ)」などを「臣民」としたと読み取れる文章があります。「辛卯年」は391年のことと考えられており、碑文には、「辛卯年」以後、たびたび、倭軍と高句麗軍とが交戦したと記されています。
2、戦前の研究史
1883年(明治16)、石碑の立っている集安に密偵として潜入した参謀本部将校の酒(さ)匂(こう)景(かげ)信(のぶ)がこの碑文に注目して拓本を日本に持ち帰りました。翌年から、参謀本部で拓本の判読と注解の作業が開始されました。漢文学者の川田剛・丸山作(さく)楽(ら)・井上頼圀(よりくに)らの考証を経て、88年末に酒匂の名により拓本は宮内(くない)省へ献上されました。碑文の記述内容と〈神(じん)功(ぐう)皇后の三韓征討伝説〉が結び付けられていったため、戦前の大日本帝国の朝鮮半島・中国大陸への進出を正当化する根拠の一つとして重要視されました。
91年(明治24)の菅(すが)政友(まさとも)「高麗好太王碑銘考」(『史学会雑誌』第2編22~25号)により、本格的な研究が開始され、93年には那(な)珂(か)通(みち)世(よ)「高句麗古碑考」が続きました。このころ吉田東(とう)伍(ご)・坪井九(く)馬(め)三(ぞう)・白鳥庫(くら)吉(きち)などが朝鮮古代史関連論考を精力的に発表したため、近代日本の代表的な東洋史学者たちによる朝鮮古代史研究がおおいに進展しました。これらの研究の背景には欧米列強への強い意識があり、日本の大陸進出策という現実があったので、厳しく点検される必要があります。しかし、伝統のある中国史研究を除くと、他のアジア諸国史に先んじて、朝鮮史研究が盛んに行われたことは注目されます。
なお、広開土王碑文研究は菅政友「高麗好太王碑銘考」によりはじまったとされてきましたが、最近になって、これに先立つ84年(明治17)に、青江(あおえ)秀(ひいず)「東扶余(ふよ)永楽(えいらく)大王(だいおう)碑銘解」と横井忠直「高句麗古碑」の存在したことが明らかにされています。これらの論文は未発表でしたが、酒匂景信が碑文を日本にもたらした直後に学術論文が執筆されていたことは見逃せません。ただ拓本が原碑から直接採拓されたものではなく釈読不能の碑字も多かったうえに、130枚以上にのぼる墨(ぼく)紙(し)の復元排列(はいれつ)が難解なため、菅政友・青江秀・横井忠直などによる初期の研究は年代・王名・王代を誤る部分もありました。
84年には、中国でも葉(よう)昌(しょう)熾(し)が碑文の解釈をしており、日中の碑文研究がほぼ同時に開始されたとすることができます。
文献史学としてはじまった高句麗史の研究には、しばらくして高句麗考古学が加わりました。95年、鳥居(とりい)龍蔵(りゅうぞう)は遼東半島へ調査に行く機会を得、析(せっ)木(き)城(じょう)付近でドルメンを発見し、翌年、論文として発表しました。日本が韓国を併合した1910年(明治43)、鳥居は朝鮮における高句麗遺跡に関する論考を発表しました。以後、関野貞(ただし)・藤田亮策らによる集安や平壌における城郭(じょうかく)・古墳・建築祉・遺物に関する精密な研究が進められました。
3、戦後の研究史
戦後の碑文研究の動向は主に三つの流れがあります。
一つ目は日本の植民地支配から独立した朝鮮半島の研究者による成果が提示されたことです。高句麗の旧領地を含む朝鮮民主主義人民共和国の研究者による考古学的調査がすすみ、朱(しゅ)栄(えい)憲(けん)『高句麗壁画古墳の編年に関する研究』をはじめ、考古学研究所や金日成(キムイルソン)綜合大学などによる研究報告が刊行されていきました。
1950年代になると、戦前の民族主義史学の視点を継承した大韓民国や朝鮮民主主義人民共和国の研究者によって、まったく新しい視点からの研究が公表されました。55年、鄭(てい)寅(いん)普(ふ)「広開土境平安好太王陵碑文釈略」(『薝(たん)園(えん)国学散(さん)藁(こう)』所収、『庸斎(ようさい)白楽濬(はくらくしゅん)博士還甲記念国学論叢』所収、ソウル)は、戦前の日本の碑文研究は釈読・解釈において根本的に誤っていると批判しました。「倭以辛卯年来渡海破百残□□新羅以為臣民」の記述の主語は高句麗でなければならないとしたうえで、渡海したのは倭ではなく高句麗であるとする主張が展開されました。この新解釈は戦後の朝鮮歴史学界で広く支持され、66年には朝鮮民主主義人民共和国で朴(ぼく)時(じ)享(きょう)『広開土王陵碑』と金(きん)時(じ)享(きょう)『初期朝日関係研究』が発表され、定説化しています。
二つ目は、拓本の字句に対する精緻な批判が展開されたことです。59年(昭和34)に発表された水谷悌(てい)二郎(じろう)「好太王碑考」(『書品』100)は、酒匂が将来した拓本などの性格を詳細に分析し、碑字の一字一字について丹念に調査して、精度の高い碑文の釈文を提示しました。水谷により原石拓本が発見されたことで、碑文の原字復元が飛躍的に進んだことは高く評価されています。
三つ目は碑文の研究史に対する関心が高まり、拓本来歴の背景が詳細に検討されたことです。72年に刊行された李(り)進(しん)煕(ひ)『広開土王陵碑の研究』(吉川弘文館)は、日本に拓本を持ち込んだ酒匂が参謀本部の密偵であることに着目し、酒匂が日本帝国主義に都合の良くなるように、碑文を改竄した可能性のあることを指摘しました。酒匂の拓本将来の翌年に未発表論文を執筆していた青江秀と横井忠直も軍の関係者であり(青江は海軍省軍事部に勤務し、横井は参謀本部編纂課に在職していました)、碑文研究の初期における旧日本軍部との結び付きが明らかにされました。2年後には佐伯有清『研究史 広開土王碑』(吉川弘文館)が出版され、日本のみならず周辺諸国での研究動向が紹介され、高句麗史研究や東アジア史研究のあり方が問われることとなりました。
72年に前沢和之「広開土王碑をめぐる二、三の問題」(『続日本紀研究』159)、翌年に浜田耕策「高句麗広開土王陵碑文の虚像と実像」(『日本歴史』304)があいついで公表され、碑文全体の構造が分析されました。これにより碑文の中には「挿入文」や「前置文」があることが指摘され、碑文の客観的な解釈への道をひらきました。
1980年代になると中国吉林省考古学研究所の碑文調査がすすみ、李進煕による碑文への改竄説は否定されることとなりました。 (高麗浪漫学会理事 中野高行)
〔参考文献〕 武田幸男『高句麗史と東アジア-「広開土王碑」研究序説』(特に序章)
岩波書店 初版(1989年6月)、オンデマンド版(2012年6月)
《お知らせ・掲示板》
・5月24日(土)に、高麗浪漫学会歴史講座の「第1回史料解説講座(古代):赤木隆幸講師」が開講されました。参加者25名中で出席した受講生は16人でした。内容は、『続日本紀』大宝3年4月乙未条の「大宝3年(703)4月乙未(4日)に、従五位下の高麗若光に王(こにきし)姓を賜った」という内容を、関係史料をもちいて読解するというものでした。普段聞きなれない律令用語が多出したため、多くの受講生から「難しかった」との感想をたまわりました。この点については、今後の講座内容も含めて善処改善いたします。また、いただいた御質問については、次回以降、赤木講師が講座内で適宜お答えさせていただく予定でいます。
・6月28日(土)14:00~16:00 会場:高麗神社1階会議室・・・講師 赤木隆幸
「高麗浪漫学会歴史講座・第2回史料解説講座(古代)~霊亀2年5月辛卯条(高麗郡建郡記事)」
・7月5日(土)13:00~14:00 会場:日高市生涯学習センター視聴覚室
「高麗浪漫学会第2回定期総会」(会員のみ)
引き続き14:00~15:30「公開歴史講演会“広開土王碑建立1600年を迎えて”」
講師:武田幸男 東京大学名誉教授 (定員:120名先着順 参加無料)がありますので、ふるってご参加ください。詳しくは、開催案内チラシをご覧ください。