《史料解説講座》・・・「白村江の戦い」を読む

《史料解説講座》・・・「白村江の戦い」を読む

テーマ:「斉明天皇の百済救援」
~『日本書紀』斉明6年7月乙卯条~斉明7年11月戊戌条~

第1回

日時:9月6日(日)13:30~15:30
会場:高麗神社参集殿1F会議室
講師:赤木隆幸先生(高麗浪漫学会理事

本年度は高句麗滅亡へと繋がる白村江の戦い(倭・百済遺臣vs唐・新羅)に関する史料を講読しました。
講読史料は主に『日本書紀』ですが、現代語訳のあるテキストでした。

事前申し込みしていない参加者もやって来て、事務局は資料を余分に用意していたにもかかわらず、追加コピーする有様でした。参加者 19人、テーマが歴史の教科書には必ず出ている「白村江の戦い」だから、会員の関心が高かったようだ。

赤木先生は、白板に斉明天皇の系図を示し、百済の苦境を天皇自ら救援に行こうとしていたことなど、白村江の戦い前夜までの経緯を、日本書紀の記述を元に、わかり易く説明した。

<下記は資料抜粋>

〇はじめに
白村江(はくそんこう・はくすきのえ)の戦いとは、百済を再興するため663年に百済遺臣軍と倭(日本)の救援軍が、唐・新羅連合軍と戦った戦いのことです。激戦の地であった白村江の名をとって「白村江の戦い」と呼ばれています。戦いは倭軍の大敗に終わり、ここで百済は完全に滅亡してしまいます。
その後、高句麗は頼る国なく孤立し、668年に滅亡します。つまり、この戦いは高麗人の故郷である高句麗にとっても非常に大きな意味があったのです。

〇白村江までの流れ
660年(斉明六年)
7月、唐高宗の命により蘇定方ら百済を攻め落とし、百済王(義慈王)らを捕虜にする。
鬼室福信らの百済遺臣たちは唐・新羅軍に反撃し、任射岐山に遺臣軍の拠点を置く。

10月、鬼室福信ら倭に使者を派遣して、倭の人質となっていた百済王子の豊璋を王に立てて百済を再興するために、豊璋の帰国と救援軍の派遣を倭に要請。
12月、斉明天皇、飛鳥から難波宮へ移動。
是の歳、百済救援のために駿河国に命じて船を造らせた。

661年(斉明七年)
1月、難波津、出航。大伯海。熟田津、石湯行宮。
3月、娜大津(那津・長津)、磐瀬行宮。
4月、鬼室福信、使を派遣して豊璋を迎えることを上表。
7月、斉明天皇崩御。
皇太子(中大兄皇子)、長津宮に遷り、海外の軍政に着手。
8月、阿曇比邏夫連ら百済救援軍の派遣を決定。
9月、皇太子、長津宮で百済の王子豊璋に織冠の位を授ける。多臣蔣敷の妹を豊璋の妻にする。
狭井連檳榔らを派遣して 軍五千余人をもって豊璋を百済へ護送させる。
鬼室福信が出迎えて、豊璋に国政を委ねる。

11月、飛鳥川原の地で、斉明天皇の殯。

662年(天智元年)
1月、百済の鬼室福信に矢十万隻・糸五百斤・綿一千斤・布一千斤端・韋一千張・稲種三千斛を賜う。

5月、阿曇比邏夫連らの船軍一百七十艘に護送され帰国した豊璋は勅により王位を継いだ。
6月、百済、使を派遣して倭に朝貢する。

663年(天智二年)
2月、百済、使を派遣して倭に朝貢する。
新羅が百済南部の四州を焼き、徳安などの要地を侵略。
避城から州柔に戻る。
福信が唐の捕虜を倭へ送る。
3月、上毛野君稚子ら二万七千の軍勢を派遣して新羅を撃たせる。

6月、上毛野君稚子らの軍勢が、新羅の沙鼻・岐奴江の二城を攻め取る。
豊璋、謀反を疑って福信を斬首に処す。

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次回 講 座 プ ロ グ ラ ム

第2回
日時:10月11日(日)13:30~15:30
会場:高麗神社参集殿1F会議室
講師:赤木隆幸先生(高麗浪漫学会理事
テーマ:「白村江の戦い」
~『日本書紀』天智即位前~天智2年9月甲戌条~