【報 告】渡来文化研究者3名に賞を授与 第6回渡来文化大賞授賞式&ミニ講演会 5/18(土)
5月18日(土)、高麗神社参集殿2階大広間で、「日本高麗浪漫学会 高麗澄雄記念 第6回渡来文化大賞」の授賞式&ミニ講演会を開催しました。
授賞式には、受賞者をはじめ、来賓、関係者、高麗1300会員など40名が出席しました。冒頭では、高麗1300大野松茂会長、日本高麗浪漫学会新井孝重会長(高麗1300副会長)、高麗神社高麗文康宮司(高麗1300副会長)が挨拶しました。
続く授賞式では、3名の受賞者が紹介されたのち、大野松茂会長より、賞状と副賞(賞金または記念品)が手渡されました。なお、渡来文化研究奨励賞を受賞した諫早直人さんが、都合により欠席されました。
<渡来文化研究大賞>
小嶋芳孝さん
(金沢学院大学文学部名誉教授
/金沢大学古代文明・
文化資源学研究所客員教授)
『古代環日本海地域の交流史』
同成社 2023年2月発行
<渡来文化研究奨励賞>
諫早直人さん
(京都府立大学文学部歴史学科准教授)
『牧の景観考古学
~古墳時代初期馬匹生産と
その周辺~』
六一書房 2023年1月発行
<渡来文化研究啓蒙賞>
熊本県立装飾古墳館分館
歴史公園鞠智城・温故創生館
館長 長谷部善一さん
『渡来系技術と古代山城・鞠智城
~渡来文化の重層性~』
熊本県教育委員会発行
2022年10月
2023年3月・10月発行
選考講評では、渡来文化大賞選考委員会の鈴木靖民委員長(國學院大學名誉教授)より、受賞作品についての評価および選考理由が述べられました。また、酒井清治選考委員(駒澤大学名誉教授)より選考時の苦労した様子などが伝えらえました。
休憩後、3名の受賞者によるミニ講演会へ
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・・・講演の内容を簡単にご紹介します。(一部資料より補足)
まず、諫早正人さんが、ビデオで講演しました。ご本人が関係するシンポジウムの開催日と重なってしまい、残念ながら欠席となりましたが、ビデオをお送りくださいました。
日本在来馬は江戸時代以前に日本各地で飼われていた馬で、明治時代以降に品種改良や種馬統制法(1939)でほとんど姿を消してしまったそうで、現在は御崎馬(天然記念物)や木曽馬など全国で8品種(1817頭)が残っていとのことでした。
馬はいつどこからきたのか。縄文時代以前にはいなかった馬が、弥生時代に散発的に大陸から人間に伴われて渡来した説が有力とのこと。また、騎馬民族説のように5世紀に一気にやってきたという説もあるそうです。飛鳥時代にはたくさんの馬がいて、奈良時代にはすっかり在来の馬となっていたといいます。本格的渡来は、古墳時代中期に馬が大量に渡来し、急速に普及していきました。牧を遺構として捉えることは難しく、さまざまな状況証拠などから河内湖北東岸の蔀屋(しとみや)北遺跡周辺に牧の存在が極めて高いと。出土した馬の骨や歯を科学的に調べると、各地から集められた馬もいたという話は、とても興味を持ちました。また馬具は日本で作られたもの、船の部材も出土しており、馬を朝鮮半島から運んだことがわかるとの話でした。
馬を持ち込んだのは誰か。考古学の立場から、「騎馬民族征服王朝説」を否定。あくまで倭国内での需要の高まりによるものであり、特に軍事的意味合いから朝鮮半島南部の国との「互恵的関係」によるものだと。そして大和と河内が一体となって王宮と王墓、生産遺跡を広域的に展開したと説明しました。古墳時代中期中葉にたくさんの馬の生産地を東日本に作りながら集積していったこと、さらに中期後葉以降には北関東から九州まで前方後円墳が造られる範囲に急速に広がったとの話は、馬と古墳の関係を深く知る機会となりました。
最後に蔀屋北遺跡の遺物が展示されている四条畷市立歴史民俗資料館や、市の施設や公園になっている遺跡の場所が紹介されました。一度、遺跡の上に立って思いを馳せてと・・・
続いて、歴史公園鞠智城・温故創生館館長の長谷部善一さんが講演しました。
鞠智城とは、7世紀後半、今から約1350年前にヤマト政権によって築城された古代山城です。663年の白村江の戦い以後、対馬などに防人が設置され、戦いからわずか3年後に福岡県の大野城などと同時期に築城され、発掘調査から、大野城や基肄城と共に約300年存続したとのことでした。そしてこの3つの城の位置関係から、防衛最前線の二つの城への食糧や武器などを供給する施設だということに、なるほどと思いました。
鞠智城跡に残る渡来系と考えられる遺構や遺物について説明しました。土塁には「版築(はんちく)」という当時の朝鮮半島の最新技術が使われているもので、写真でも紹介されました。また百済系の銅造菩薩立像なども出土していることから、百済の亡命貴族たちがかかわっていたものと考えているそう。また、出土した八角形建物跡は、これまでの研究から百済地域ではなく、新羅の支配地域でのみ確認されているとのことで、こちらも大変興味をそそる話でした。
鞠智城の変遷について解説。約300年の歴史のなかで、4期に分類され、それぞれの特徴を説明しました。特に鞠智城Ⅱ期の八角形建物跡からそれを復元し鞠智城のシンボルになっている建物は、ぜひ現地で見てみたい。
令和4年度と5年度に開催したシンポジウム(東京・明治大学)では、古代山城の技術は基本的に百済だけでなく新羅や高句麗など多様な技術が入っている「渡来文化の重層性や多様性」がもたらしたものとの見解を得たそう。そして、これまで得た成果をふまえ、引き続き古代山城研究の先鋒となるように努めていきたいとのことでした。
最後に、小嶋芳孝さんが講演しました。
3世紀後半頃の巨大な建物群が発掘された万行遺跡(まんぎょういせき・七尾市)。これは古墳時代初頭の最大級規模と思われ、能登に得体のしれない巨大な建物を持つ集団がいたということが見えつつあるとの話は、冒頭から会場を引きつけました。日本海北部に面した良港を持つ能登は、北方日本海世界と接触する重要なゲートウェイだった。能登の人々は縄文時代以来、佐渡や越後を経由して北方日本海世界と接触していたといいます。660年、阿倍比羅夫の渡嶋遠征に参加した能登臣馬身龍(船団のリーダーか)が見た北方世界が記された『日本書紀』も紹介されました。
錫(すず)は北海道や東北では産出しないことから、北日本の錫製品は大陸沿海地方の靺鞨(まっかつ)と蝦夷との交易がもたらしたものであるとのこと。さらに8世紀になると渤海船が東北へ頻繁に来航したことから、岩手や青森、茨城などで出土した錫杖状鉄製品や筒形鉄製品をシャーマンの衣服に付けた発音器具ではないかとのことでした。
能登は、北日本と大陸の独自の交流により、渤海使来航が北方民族交流の到達点と。能登の宗教世界は、境界領域としての宗教装置であり、小嶋西遺跡は祭祀が行われていた場所であり、渡来する疫神を払うために気多神社が重視されていたと。良いものもやって来るが悪いものも来るということか、外交最前線の地域にはどこもこうした宗教が存在していたものなのか気になります。
最後に、能登半島震災について触れ、能登の復興理念に疑問を投げかけました。国から打ち出された復興理念は、地元の意見が反映されておらず、能登に対する洞察が欠如したものである。また被災した文化財は、博物館がないために、小学校の体育館などに集められていて、これからどのように扱っていくのか全く示されていない。いま必要な復興理念とは、能登の歴史風土に根差した理念の構築であり、里海・里山の再建と、能登に住む自信と誇りを取り戻すための能登の歴史と自然を紹介する『博物館』をつくるべきであると締めくくりました。
今年の元旦以来、連日のように能登が被災したニュースを見てきましたが、能登は半島の根元に平地があるだけで、半島そのものは山ばかり。能登は永年取り残されてきた地域です。との話に、先日テレビで報道された遅々と進まない復興の様子を思い起こしました。能登の歴史と震災復興がつながっているということを知ることとなりました。
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閉会の挨拶のあと、関係者一同にて記念写真を撮り、第6回渡来文化大賞授賞式が終了しました。
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早速、埼玉新聞に掲載されました!
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第7回渡来文化大賞の作品募集は2024年9月頃から開始し、12月31日締め切りとなります。2025年3月に選考委員会による審査によって大賞、奨励賞、啓蒙賞が決まり、同月末ごろに発表します。授賞式や講演会は5月を予定しています。
「渡来文化大賞」は、古代史研究、とりわけ渡来文化についての研究成果(著書・論文・展示発表など)に対して大賞や奨励賞、啓蒙賞を贈り、これらの分野の研究が進むこと、若手研究者への励みになること、広く一般に親しまれることを目的にしています。
古代渡来文化研究者の皆様、奮っての応募をお待ちしております。
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第6回に関する記事はこちら・・・
作品募集記事・・・・・第6回渡来文化大賞作品募集のお知らせ
選考結果発表記事・・・第6回渡来文化大賞選考結果のお知らせ