高麗浪漫学会通信  第4号 

高麗浪漫学会通信  第4号 

高麗浪漫学会通信  4            20141115

編集・発行 高麗浪漫学会

〒350-1243 埼玉県日高市新堀855番地3

TEL/FAX:042-978-7432 Email:info@komagun.jp

 

高麗浪漫学会では歴史講座の一環として見学会を企画しておりまして、今年度は大磯町(7月)と早稲田大学(10月)を訪れました。本号では参加できなかった会員のみな様にその模様をお伝えしたいと思います。

(高麗浪漫学会理事 赤木隆幸)

《巡見記》1  大磯町「御船(おふね)祭り」見学会

(高麗浪漫学会理事 荒井秀規)

去る7月20日(日)に、高麗浪漫学会の歴史見学会として、神奈川県大磯町の「御船祭り」の見学会があり、参加しました。
「御船祭り」とは、大磯町の高来(たかく)神社(大磯町高麗2丁目)の祭礼で、観音像を海中から引き揚げたという照ヶ崎(てるがさき)海岸の伝説にちなんで、今日では隔年で2艘のマツリブネ(船山車)が町内を曳かれ、あわせて、高麗権現の渡来や千手観音が海中から引き揚げられた由来を伝える船歌や木遣り唄(きやりうた)が歌われる大磯町指定無形民俗文化財です。高麗浪漫学会でも、かねてからその見学が望まれていました。
当日は、JR東海道線の大磯駅前に午前10時15分集合の予定でした。ところが、なんと9時23分頃に大磯駅より西へ二駅(二宮・国府津)挟んだ鴨宮駅で人身事故発生。東海道線は上下線で運転を見合わせとなってしまいました。私も、辻堂駅で事務局の山田さんや大野会長(高麗郡建郡1300年記念事業委員会)ほかと立ち往生。しばらくして、茅ヶ崎、平塚と一駅ずつ徐行で進み、続く大磯駅に到着したのが10時半過ぎ。高麗浪漫学会の高橋会長ほかの後続組みを待って、大磯駅をスタートしたのが11時前でした。

御船祭り

御船祭りの明神丸

ともかく、地元ボランティアの方の案内で、お目当てのマツリブネを探します。高来神社ほか四町内会の神輿は照ヶ崎海岸へと練り歩きますが、マツリブネはその手前の国道1号に沿って少し海岸よりの「下町通り」という路次を東西に曳かれます。そこへ駆けつけると、いましたマツリブネが! ただし、出遅れが響き、木遣り歌はすでに終わっていました。残念。でも、午後もあるので、それに期待です。

マツリブネ(天鶏船・あまのとりふね)は2艘あり、江戸時代には「権現丸」と「観音丸」と呼ばれていましたが、明治元年の神仏分離令によって権現・観音の仏教的要素を退けて、ともに「明神丸」と改められました。南浜のマツリブネが旧権現丸、北浜のマツリブネが旧観音丸です。2艘は、漆塗りの船体に龍の彫刻が施され、水引・襖・幟・花・吊るし物(魔除けの猿ほか)で飾られていますが、南浜の旧権現丸は帆柱の頂きに諫鼓(かんこ)と鳳凰、北浜の旧観音丸の帆柱の頂きには猿田毘古尊(さるたひこのみこと)が飾られています。南浜・北浜とは、もともとは浜青年と呼ばれる漁民だけで構成される青年会です。現在では青年会ではなく大磯御船祭保存会が主催となっていますが、かつての組織を踏襲しつつ、南下町・北下町の町内会が組み立て、飾り付けをしています。
我々が最初に遭遇したのは、南浜の旧権現丸。そこへ海岸へと向かう神輿が幾つか交差し、やがて東からもう1艘の北浜のマツリブネ(旧観音丸)がやってきました。2艘のマツリブネが、舳先を合わす「下町通り」の通称「四つ角」は、マツリブネの曳き手、神輿の担ぎ手、そして大勢の見学者で、かなりの混雑に。我々も、再び駅前で集合することとして、思い思いに見学です。私は、正午に神輿が揃う「浜降り」を見学に照ヶ崎海岸へと向かいました。高来神社や各町内の神輿が大磯甚句に合わせて海岸を練り歩き、競演するハイライトシーンを堪能しました。なお、マツリブネも以前は「浜降り」を行いましたが、先述のように現在は「下町通り」を曳かれるだけです。

高来神社

高来神社

さて、そもそも、我々が、埼玉県の高麗の地とは遠く離れた神奈川県の大磯のお祭りをなぜ訪ねたかというと、それは大磯の地にも若光伝承があるからに他なりません。
ご当地には、歌川広重の「東海道五拾三次」の平塚に描かれていることでおなじみの高麗山(標高167.3m)があり、その麓にあるのが高来(たかく)神社です。お気づきの通り、タカク→高来→コウライ→高麗→コマ→高句麗です。高来神社も『新編相模国風土記稿』には「高麗権現社」とあり、高麗寺村(大磯町高麗地区)と大磯宿(同大磯地区)の氏神であるとともに、別当寺の鶏足山雲上院高麗寺と渾然一体とした神仏混淆の形態をとっていました。高麗寺は、『吾妻鏡』建久3年(1192)8月9日条に源頼朝によって、北条政子の安産が祈願された寺社の一つにその名が伝わる古刹です。そうした高来神社も、神仏分離で明治元年(1868)に高麗寺が廃されて「高麗神社」と改称され、さらに明治30年(1897)に「高来神社」に改称されました。
また、平安時代中期に作られた辞書『和名類聚抄』によれば、相模国大住郡には高来郷があります。高麗山一帯から、花水川東岸の中世以降は大住郡になる平塚市西部にかけてが、高来郷にあたるのでしょう。
そして、高麗山山頂にある「高麗と若光」と題する説明板には「若光は一族をつれて海を渡り大磯に上陸、日本に帰化してこの山のふもとの化粧坂あたりに住み、この地に大陸の文化をもたらしました。高麗若光と高句麗の人たちが住んでいたことから、この地が高麗と呼ばれるようになりました」(環境省・神奈川県)とあります。

そして、このことを詠うのが、先ほど聞き逃した木遣り歌です。すなわち、天保14年(1843)の「きやり歌控帳」に「五んけんまる」(権現丸)と題する木遣り歌が載っています。これ継承する南浜の木遣師福田良昭氏の木遣り歌に、
そもそも高麗大明神(こまおおかみ)の由来を詳しく尋ぬれば、応神天皇十五代の御時に、俄かに海中騒がしく、浦の者ども怪しみて、遥かの沖を見てやれば、唐船一艘八つの帆を揚げ 大磯の方(かた)へ梶をとる。走り寄るよと見るうちに、程なく水際に船は着き 浦の漁船漕ぎ寄せて、かの船の中よりも 翁壱人立ち出て 櫓に昇りて声をあげ、「汝等(なんじら)それにてよく聴けよ 吾は日本の者にあらん 諸越(もろこし)の高麗国の守護なるが、邪険な国を逃れ来て、大日本に心掛け、汝等帰依する者なれば、大磯浦の守護となり、子孫繁盛守るべし」、汝等有難やと拝すれば、やがて漁師の船に乗り移り、上がらせたもう御代よりも、権現様(明治以降は明神様)を乗せたてまつる船なれば、権現丸(明治以降は明神丸)とはこれを言うなり。
とあります(福田氏提供資料より。一部補訂)。この「翁壱人」が、若光ということになります。
大磯の若光伝承は天保期にはじまるものではありません。中世以前に遡ります。二つほど史料をあげておきます(ほかに『走湯山縁起』や『神道集』)。神奈川では古くより、若光(和光)が大磯の地に上陸したと伝えられているわけです。

『箱根山縁起』(『群書類従』)
神功皇后、三韓を討ちし後、武内大臣の奏有りて云う。異朝の大神を奉請して天下の長き安寧を祈らしむ、と。即ち、百済明神を日州(日向)に遷し奉り、新羅明神を江州(近江)に遷し奉り、高麗大神和光を当州(相模)大礒聳峰に遷し奉る。因りて高麗寺と名づく。
『北条記』(『小田原合戦記』)(『続群書類従』)
(北条)氏綱伊豆山ヘ御参詣アリ。縁起記ヲ御尋ネアル。当社権現(伊豆山権現・走湯山権現)往古ニ高麗国ヨリ御舟ニ召レ当国ヘ御渡アリ。相模国中郡ノ高麗寺山ニ上ラセ玉ヒヌ。之ニ依リ、此山ヲ高麗寺(山脱カ)ト申ナルベシ。其後、仙人当山ヘ参詣シ、爰ニ移居マシマシテ以来、霊験威光勝ゲテ計ウベカラズ。

さてさて、すると、問題となるのが、高麗郡の建郡記事です。
『続日本紀』霊亀2年(716)5月辛卯(16日)条
駿河・甲斐・相摸・上総・下総・常陸・下野七国の高麗人千七百九十九人を以て、武蔵国に遷し、始めて高麗郡を置く。
若光は相模の大磯高麗の地から、武蔵の高麗郡へと移住したのでしょうか???

ここでは、その詮索はせず、参加記に戻りましょう。
さて、「浜降り」のあと、再び大磯駅に集合した我々は、タクシー3台に分乗して、大磯町郷土資料館へと向かいました。迎えてくれたのは富田三紗子学芸員。昨年12月の本会シンポジウムにも参加してくれました。そのご縁もあって、今回の見学会では準備段階からお世話になり、木遣師の福田さんをご紹介戴き、かつ資料館のご案内もして戴きました。資料館では常設展の大磯の歴史・民俗のほか企画展「相模湾のウミガメ」が開催中でした。大磯海岸は、アカウミガメの産卵・孵化地です。
実は、今回のお祭りのマツリブネ2艘のうち1艘は普段、この大磯町郷土資料館に展示されています。それが、二年に一度、解体・搬出されて、組み立てられてお祭りに参加するわけです。したがって、当日の展示室にはマツリブネはなく、いつもよりガラーンとした感じ。これも二年に数日しか見られない光景です。今年の「御船祭り」まで資料館に展示されていたのは、南浜の旧権現丸でしたが、お祭りの後は、北浜の旧観音丸が展示されています。
資料館見学後、再びタクシー分乗で、お祭りへと戻ります。そして、2時半頃に「下町通り」の通称「かごや前」で念願の木遣り「権現丸」(福田木遣師)を拝聴しました。私は『大磯町史』古代編(2004)その他で、この木遣り歌を取りあげていますが、実は生で聞くのは始めて、感激です。

かくして午前・午後にわたる「御船祭り」の見学も一段落、再び大磯駅へ。時間の都合で若干の方がお帰りになりましたが、残りは、三回目のタクシー分乗で高来神社へ。祭礼とは対照的に境内は静で、我々以外に人影はありません。社殿の裏手には高麗山山頂に至るハイキングコースもありますが、それはまた今度として、待たせたタクシーのメーターを気にしつつ写真撮影を済ませ、再乗車、一同平塚駅へと向かいました。

ほどなく平塚駅で無事、解散。アクシデントにはじまる見学会でしたが、ひととおり見るべきものを見ることが出来ました。幹事の山田さん、有り難うございました。今回の初めての見学で、祭礼の進行に対する見学者のポジショニングがわかりました。それを踏まえて、二年後の再訪を期した次第です。

《巡見記》2 早稲田大学會津八一記念博物館を訪ねて

                                   (高麗浪漫学会理事 赤木隆幸)

大隈講堂

早稲田大学大隈講堂前の参加者

會津八一記念博物館

會津八一記念博物館レクチャールームで高句麗瓦の見学

          10月18日(土)、快晴の秋空のもと、大隈記念講堂前に高橋一夫会長以下8名のみな様にご参集いただきました。記念撮影ののち、會津八一記念博物館に移動し、東洋美術担当学芸員の金志虎氏(ソウル出身)にご案内いただきました。この見学会は主に會津八一記念博物館収蔵の高句麗瓦を見るために企画されたものでした。
會津八一記念博物館は、早稲田大学の美術史学に多大な貢献をなされた會津八一(1881~1956 ※8月1日生まれなので八一。書家、歌人としても有名)を記念して設立されたもので、収蔵品の多くは會津八一が蒐集したものです。今回実見した高句麗瓦もその一つで、これらは朝鮮半島で集めたものではなく、會津八一が戦前日本で蒐集したものです。目録によると47点の高句麗瓦が確認できますが、これらを整理・分析された朱氏の見解によると、このうちの44点が高句麗瓦であるとされます。
会津八一記念博物館のレクチャールームに入ると、既に金氏によって高句麗瓦10数点が陳列されていました。その多くは灰色の須恵質製のもので、出土地は平壌周辺、比定年代は5世紀~7世紀とされます。朱氏によると、多歯具カキヤブリと横方向カキヤブリという技法(瓦当裏面と丸瓦の接続技法)が高句麗瓦の特徴であるとされていまして、高橋一夫会長のご教示により実際にその痕跡を見ることができました。また、特別な計らいにより瓦に直に触れる許可をいただきましたので、その質感や重さを確認することができました。
高句麗瓦を見学したのち、企画展「早稲田のなかの韓国美術」および常設展を見学しました。會津八一記念博物館には、世界最大の手すき和紙に描かれた横山大観・下村観山の「明暗」があり、こちらも金氏にご案内いただきました。もう一つの注目展示作品は前田青邨の「羅馬使節」なのですが、こちらは公開日ではなかったために観ることが叶いませんでした。そのほか常設展(無料)には、中国をはじめとした東洋美術品や考古学資料(兵馬俑の本物もあります)が多数展示されておりますので、今回参加できなかった会員のみな様も一度足を運ばれることをお勧めいたします。

會津八一記念博物館を後にした我々は大隈庭園近くのカフェで休憩をとり、次に早稲田大学坪内博士演劇博物館(通称:演博・エンパク)を訪ねました。この博物館は、その名称にも含まれるように演劇に関する資料を展示しています。ここには図書館も備わっていて、演劇関係の書籍も多く収蔵されています。今回の展示には朝鮮半島のものはありませんでしたが、収蔵品には朝鮮芸能に関するものもありますので、いずれ展示換えや企画展などで観られるかもしれません。今回は、日本の民俗芸能、伎楽、シェイクスピアの演劇資料などを見学しました。その後、早稲田大学中央図書館展示室と125記念室(大隈タワー10階)を見学して散会となりました。(※いずれの博物館・展示室も無料拝観できます)

生前の會津八一は、実物を見て実物に触れることが学問をするうえで重要だと主張していたそうです。それゆえ、會津八一は学生のために多くの美術品や資料を集めたのです。今回、高句麗瓦に直接触ることができたので、その点においては非常に意味のある見学会だったと思います。今回の見学会が、会員みな様における高麗郡研究の一助となれば幸いです。いずれ、高麗郡周辺(日高市・坂戸市など)の出土瓦についても実見できる機会を設けたいと思います。
参考文献: 朱洪奎「早稲田大学會津八一記念博物館所蔵の高句麗瓦について」
(『早稲田大学會津八一記念博物館研究紀要』第12号、2010年)
《お知らせ・掲示板》 今後の歴史学習イベントのご案内

1:11月22日(土)10:00~11:30 高句麗文化セミナー(高麗神社2F参集殿)
高麗郡フェステバル2014「第3回高麗王杯 馬射戲~MASAHI~騎射競技大会」11月22日~
24日の中のひとつイベントとして行われます。
・講演テーマ「鎌倉武士と馬」 川合 康 大阪大学大学院 文学研究科 教授
・参加無料 先着150名  受付9:30より

2:12月6日(土)13:00~17:00 第2回高麗郡建郡1300年シンポジウム
会場:日高市文化体育館ひだかアリーナ  入場無料 600名(申込み不要)
プログラム内容は、すでに前回お知らせの通りですが、開催案内チラシをご要望の方は事務局まで
ご連絡ください。(担当:山田英次)

3:高麗浪漫学会歴史講座(2月~3月)分のお知らせ・・会場:高麗神社1階会議室
・2月14日(土)14:00~16:00  第7回「史料解説講座(近世)」
「高麗家文書を読む」① 講師:横田 稔(高麗神社主任学芸員)

・3月14日(土)14:00~16:00  第8回「史料解説講座(近世)」
「高麗家文書を読む」② 講師:横田 稔(高麗神社主任学芸員)

◆来年度の歴史講座および見学会等で、ご希望があれば事務局まで気軽にご連絡ください。
高麗郡建郡1300年記念事業委員会・事務局(高麗浪漫学会) 担当:山田英次
電話 042-978-7432  電子メール info@komagun.jp