高麗浪漫学会通信 第8号
高麗浪漫学会通信 第8号 2015年8月8日
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孟夏の候、みな様いかがお過ごしでしょうか。7月5日の第3回高麗浪漫学会定期総会は滞りなく挙行され、2015年度の体制が整いました。会の活動につきましては定期総会の決議にもとづいて遂行していく所存ですが、その他ご意見・ご要望など御座いましたら、お気軽にお申し付けください。また、より良い学会とすべく、理事・運営委員ともども精進していく所存ですので、ご協力・ご支援のほど、よろしくお願い申し上げます。
(高麗浪漫学会理事 赤木隆幸)
《巡見紀》 韓国「高句麗と百済の歴史を訪ねる旅」
高麗1300広報(編集)綿貫和美
今年(2015年)5月30日~6月2日に高麗郡建郡1300年記念事業の「高句麗と百済の歴史を訪ねる旅」が開催されました。昨年は韓国に残る高句麗の遺跡をめぐりましたが、今年は「高句麗と百済」に焦点をあて、高句麗の南進により百済が都を移し、やがて滅亡するまでの足跡をたずねる旅。百済の都がうつっていく順にならい、ソウル、公州、扶余を訪れました。旅で見聞きしたことを簡単ですが 会員の皆さまにご報告したいと思います。
ソウル (見学先 … 漢城百済博物館、夢村土城、石村洞古墳群)
高句麗が滅ぼした百済の都
今回の旅で最初に訪れたのはソウルでした。百済は紀元前18年、現在のソウルの地に建国されました。漢江(ハンガン)という川がソウルの中心を東西に流れています。古代には「漢江を手に入れれば、朝鮮半島を手に入れたようなもの」といわれたほど重要な川で、流域は水路を介した交通の要地であり、肥沃な農地でもありました。この漢江地域を治めた百済は、高句麗、新羅と共に朝鮮半島に三国時代をもたらし、華やかな文化を花開かせました。
最初の都は漢江の南にある「慰禮城(ウィレソン)」で、後に「漢城(ハンソン)」と名称を変えました。漢城は、宮廷のある北城(風納土城=プンナプトソン)と、離宮のある南城(夢村土城=モンチョントソン)の二つの城からなるものでした。各城には宮廷、官庁、王族や貴族の住居、軍事施設、一般民家などがあり、約6万人が住んでいたとみられています。
最初に見学したのは、この夢村土城と漢城百済博物館。どちらもオリンピック公園内にあります。夢村土城は百済全盛期の王、近肖古王(クンチョゴワン)が統治する4世紀前後に建てられたといわれています。
兄弟国だった百済と高句麗 敵同士となったいきさつ
ソウル観光政策課の解説文によると、百済と高句麗は、高句麗の始祖・朱蒙(チュモン)を父に持つ兄弟国でした。両国は服装、言葉、生活習慣などが同じであり、もともとの関係は悪くはありませんでした。しかし4世紀初めごろ、両国の間にあった楽浪郡や帯方郡が滅亡し国境を接するようになると、しきりに争うようになりました。特に4世紀半ば、百済が強大となった近肖古王の時代には、平壌を攻めて高句麗の故国原王(コグックウォンワン)を討ち取り、高句麗との関係悪化は決定的に。4世紀末~5世紀には広開土王(クァンゲトワン)と長寿王(チャンスワン)が現れると、今度は高句麗が強大化。百済の首都・漢城は陥落し、百済王・蓋鹵王(ケロワン)は捕らわれ、処刑されました。その後、王城は廃墟となって時と共に地中に埋まり、1997年に発見されるまで「失われた王国」となっていました。
忠州チュンジュ (見学先 … チャンミ山城、中原鳳凰里磨崖石仏)
高句麗の強さの一端を強固な山城にみる
旅の2日目、まずは鉄の産地・忠州へ。350年に百済の近肖古王、475年に高句麗の長寿王、550年に新羅の真興王が支配した場所です。
私たちは高句麗の山城・チャンミ山城を目指しました。強い日差しの中、長い上り坂が続き、この旅一番の難所。やっと城壁が見えてきたときはほっとしたとともに、築城時の困苦を実感しました。見晴らしはすばらしく、南漢江が一望できます。ここなら敵の動きをつぶさに見てとることができたでしょう。高句麗の強さの根底には、勇猛な騎馬部隊はもちろんのこと、こうした強固な壁に守られた山城という存在もあったに違いないと思いました。
次に訪れたのが、仏教の南下を示す遺跡・中原鳳凰里磨崖石仏。菩薩のお顔が、写真左は細長く高句麗の特徴が、同右は四角く新羅の特徴がみられるそうです。
公州コンジュ (見学先 … 公山城、武寧王陵、公州博物館、公州韓屋村)
高度で華やかな百済文化を実感
475年、高句麗の長寿王の侵略により漢城(ソウルの地)が陥落し、第22代文周王(ムンジュワン)は熊津(ウンジン。公州)への遷都に踏み切りました。その後、泗沘(シビ。扶余)へ遷都するまでの64年間、王都を守った百済第2の都の王宮跡が、公山城(コンサンソン)。2日目午後の最初の見学地です。
北には錦江が流れ、山と渓谷に沿って建てられた天然の要塞。当初は土城でしたが、朝鮮時代に現在のような石城に改築されたそうです。城壁の全長は2660㍍。後に、朝鮮時代の地方行政の中心地にもなったので、さまざまな遺跡が点在しています。
次の目的地は熊津王都時代の王と王族の墓所・宋山里(ソンサンニ)古墳群。現在武寧王(ムリョンワン)陵を中心に7基の古墳が残っています。武寧王は百済の第25代目の王。40歳で即位し、22年に及ぶ在位期間中、民に安寧をもたらし、百済の国力を強め、国際的な地位を高めるなど大きな業績を残しました。日本に仏教を伝えた聖王(聖明王)の父でもあります。武寧王陵は墓室全体がレンガでつくられています。王の棺材が日本にしか自生しないコウヤマキと判明して話題となったことを覚えている方も多いのではないでしょうか。
遺物は4600点にも上り、まばゆい金製品が目を引きます。国宝の武寧王金製冠飾は武寧王の頭部に重ねられた状態で発見されました。薄金で忍冬唐草文様や炎の紋様が透かし彫りにされ、装飾性が高く華やか。現地ガイドによると、当時の百済は金の純度を99%にまで高める技術を持ち、新羅は70%台だったそうです。
扶余プヨ (見学先 … 扶蘇山城、定林寺址、白馬江、宮南池、国立扶余博物館)
百済最後の悲しい歴史をいだく城
3日目は百済最後の都・扶余へ。538年、高句麗の圧力に対抗するため、第26代聖王は都を公州から扶余へうつしました。公州は盆地で防御にはよくても、平地が少なく生産性がよくありませんでしたが、扶余は平野が広がり生産性がよく、白馬江(ペンマガン。錦江)伝いに海へ出るにも都合のいい場所でした。大きく湾曲する白馬江東岸の独立丘陵に扶蘇山城(プソサンソン)は造られました。
この城には、悲しい歴史を物語る落花岩(ナックァアム)があります。落花岩は白馬江を見下ろすようにそびえる60㍍の断崖で、百済滅亡の日、女性たちは自決を覚悟し、落花岩から身を投げたと伝えられています。
次は定林寺址(チョンニムサジ)へ。定林寺址五重石塔(写真左)は国宝。百済の工匠たちは、木造が持つ問題を解決するために石材を選んだそうです。高さ8・3㍍の石塔は素朴でやさしいたたずまいでした。
円熟味を増した百済文化
現在、扶蘇山城の南麓が王宮跡と推定されていますが、そこから南方約1㌔に宮南池(クンナムチ)という庭園跡があります。武王35年(634年)につくられた韓国最古の人工庭園で、西洋の庭園の整然とした美しさと違い、柳の木々が風にそよぎ、池の中の抱龍亭には細く長い木橋がかかり、心に染み入る何ともいえない風情。その昔、百済の土木技術者・路子工(みちのこのたくみ)が日本に庭園づくりを伝えたといわれていますが、百済の庭園技術がいかに日本文化に影響を与えたかを実感しました。
ところで扶余の街なかでは、いたるところに国宝百済金銅大香炉のレプリカやデザイン画がみられます。私たちはこの大香炉が出土した陵山里(ヌンサンニ)古墳群見学後、実物のある国立扶余博物館を訪れました。1993年に発見された、百済最後の傑作ともいわれる金剛大香炉。私たちのだれもがこの旅の中で一番長い時間見とれていたと思います。
翼を大きく広げた一羽の鳳凰が香炉の蓋(ふた)の頂にとまり、蓋には峰々のやわらかい稜線が重なり、その間の穴から香の煙がただよってくる仕組み。蓋には42匹の動物、5人の楽師、17人の人物が、山水の景色を背景にした74もの峰に浮き彫りにされています。爐(ろ)身はレンゲの花びらで飾られ、爐身を支えるのは、力強く体をくねらせた龍。まるで天に昇ろうとするかのようです。神秘的で、繊細かつダイナミックな作品です。
今回の旅で印象的だったのは、現地の人たちが持つ、高句麗、百済、新羅それぞれの文化に対するイメージの違い。高句麗は力強く、新羅はきらびやか、百済は派手ではないが優雅なイメージだとか。この旅でその違いまでは分かりませんでしたが、今回目にした百済の装飾品や美しい庭園、金銅大香炉の細やかさなど、私たち日本人の美意識に確実に通じるものを感じました。
番外編 ミニグルメ紀行
いろいろな地元の味も楽しみました!