【報告】高麗郡1300年大学  「新視点からみた 建郡当時の高麗郡!」

【報告】高麗郡1300年大学  「新視点からみた 建郡当時の高麗郡!」

高麗郡1300年大学が、平成28年12月4日(日) 13:30から、日高市文化体育館「ひだかアリーナ」で
行なわれた。

200名の参加者が集まり、大野松茂理事長の開会のあいさつの後、下記タイトルにて講演が行われた。


<講演1> 演題「郡の構成について」
講師:赤木隆幸(高麗浪漫学会理事)

<講演2> 演題「考古学からみた高麗郡の実態について」
講師:加藤恭朗(坂戸市教育委員会)

 

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赤木講師は、高麗郡に関する文献資料が少ない中、「続日本紀」、律令格式などの資料から、一般的な基礎事項を解説しながら、高麗郡の解説を行った。

和名類聚抄から、高麗郡は高麗と上総の二郷があったので、小郡であった。戸数は百戸程度

高麗郡の郡司については、領 1人、主帳 1人 がいて、その任用については試験があった旨解説した。

文献資料からは、郡司、下級職員施設の規模を推定するが、高麗郡域の遺跡については、考古学的アプローチが必要で、「厨」の墨書土器が、日高市の拾石遺跡で出土したことなどから高麗郡家を推定していると話した。

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加藤講師は、考古学の立場から高麗郡を解説した。

霊亀2年(716年)の建郡の時に7か国からの移住が完了し、郡としての体制が整備されたのだが、古代入間郡の遺跡の分布からは、坂戸周辺に遺跡が集中している。
(若葉台遺跡、山田遺跡、一天狗遺跡など)

高麗郡域:日高市、飯能市が中心

郡家:、日高市拾石・王神遺跡が最有力。

遺跡が、新河岸川、東山道武蔵道、周辺から発掘されているところから、武蔵国のなかの高麗郡の位置づけを解釈し、勝呂廃寺の存在や南比企窯、東金子窯、末野窯から国府、国分寺の整備を支えた役割を示唆した。