【報 告】なぜ入間郡だったのか その前後の遺跡から読み解く・・・高麗郡建郡を考古学から考察 第10回歴史シンポ<後期> 12/17(日)開催
2023年12月17日(日)、日高市総合福祉センター「高麗の郷」研修室で、第10回高麗郡建郡歴史シンポジウム<後期>を開催しました。今回も、地元はもとより首都圏各地から91名が参加しました。
今年度(2023)は、日本高麗浪漫学会設立10周年を記念して7月に<前期>を開催、10年間の研究成果で見えてきた「高麗郡建郡の謎」に、文献史学の見地から迫りました。そして12月、考古学の見地からその謎に迫りました。過去ほとんど研究・検証されてこなかった「高麗郡建郡」を、過去の膨大な考古データを分析し、考察しました。題して、『高麗郡の実態 ~高麗郡成立の背景を考える~』。
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冒頭、高麗1300大野松茂会長が、挨拶に立ち、熱心に参加してくださる皆さんに感謝の言葉を述べ、また当会のこれまでの活動を振りかえるとともに活動の意義を説きました。
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シンポジウムに入りまず、日本高麗浪漫学会中野高行副会長が、今まで9回にわたり開催されてきた高麗郡歴史シンポジウムの内容を概説的に振り返り、どのようなことが論議され発表されたかを説明しました。
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講演Ⅰでは、日本高麗浪漫学会加藤恭朗研究員が、「高麗郡建郡前の入間郡と周辺地域の動向」と題して講演しました。
弥生時代や古墳時代の入間郡や周辺地域の遺跡の動向を捉えることで、その地域の特性が、高麗郡建郡の大きな原動力になったと仮説を立て、入間地域とその周辺地域の遺跡調査結果の全体を概観して、その特性と建郡への原動力を明らかにし、「受容・融合・発展」のキーワードを通して渡来人受け入れてゆく過程を明らかにしました。
弥生時代の遺跡にはじまり、4世紀から7世紀にかけての古墳などの遺跡から見えてくる当時の様子を具体的に示しました。生産性が高く、新しい文化を受容し融合させ、さらに入間川水系を利用した流通の拡大などの「受容・融合・発展」が、渡来人との関係でも大きく働いたものと説明しました。
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講演Ⅱでは、日本高麗浪漫学会富元久美子研究員が、「高麗郡建郡後の入間地域 高麗郡建郡はこの地に何をもたらしたのか・渡来人による新郡開発とは?」と題して講演しました。
まず、入間郡市で40年の発掘調査の成果を辿り、高麗郡建郡の背景を考えるキーワード「移住」「開発の実態」「渡来人・技術」「入間郡との関係」から紐解いていきました。
日高市の「捨石・王神遺跡」、飯能市の「張摩久保遺跡」、鶴ヶ島・坂戸市の「若葉台遺跡」の3つの遺跡の状況を対比しながら、その特徴について解説しました。そこからみえてくるものは、建郡直後から移住が始まり、特に地元が積極的に建郡を支援したこと、土木技術を駆使して堅実に農業基盤を整備していったこと、開発が後世に継続され、山間地開発も手掛けるなど、入間郡との協働で建郡後の開発が進められていたものと説明しました。
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パネルディスカッションでは、二人の講師に、日本高麗浪漫学会荒井秀規副会長が加わり、講演の内容をもとに幅広く論議が展開されました。特に高麗福信の出身氏族である肖奈氏の活躍を推論するなど、今後の研究への足掛かりが示されました。いくつかの新しい視点が確認されたことで、さらなる研究への期待も高まり、参加したみなさんは大変満足した様子でした。
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最後に、荒井秀規副会長による閉会の挨拶で、日本高麗浪漫学会設立10周年記念 第10回高麗郡建郡歴史シンポジウム<後期>の幕を閉じました。
今回の二回にわたる「シンポジウム」で、つい10年前にはほとんど検証されてこなかった「高麗郡建郡の謎」を、解き明かすまでには至らないまでも、新たな知見や検証がなされたことは、今後の研究が大いに期待できるものと確信しています。
今回ご参加くださった皆様、誠にありがとうございました。また次回の謎解きにぜひご参加ください。