【報 告】鎌倉街道を歩き、当時の行き交う人々に思いを馳せる 第15回歴史ウオーク 11/17
2024年3月の第6回高麗郡中世歴史講演会のテーマが「中世の鎌倉街道と宿の役割」。講師に榎原雅治先生(東京大学名誉教授)をお招きしてご講演をいただきました。講演に先だち毛呂山町歴史民俗資料館の佐藤春生館長に「国史跡:鎌倉街道上道と宿などの遺跡群について」解説していただきました。
そこで、第15回高麗のふるさと歴史ウオークとして、国指定史跡となった毛呂山町の鎌倉街道上道を歩いてみたいと思い立ち、企画しました。
この企画を持ち込んだところ、佐藤館長さん自ら案内してくださることになりました。
11月17日(日)は、『曇・気温高め』の予報で、まずまずのウオーク日和。距離がいつもよりも短い約8kmなので、30分遅らせて東武越生線「西大家駅」そばの「国渭地祇神社」に集合。さっそく、佐藤館長が神社について解説してくださいました。坂上田村麻呂が東征の帰途に社殿を造立ともいわれている古社。安永6年(1777年)に始まったという獅子舞が今も行われています(毎年10月14.15日)。
9:30に出発、神社脇の道が鎌倉街道です。途中左に入ると『万葉歌碑』が。万葉集第十四巻にある「入間道の大家が原のいはゐづら ひかばぬるぬる吾にな絶えそね」とうたわれています。大家の地はそれほど古い歴史を持つ土地なんですね。鎌倉街道やさらにさかのぼり古代の官道としても人々が行き交っていたのかもと思うと、こうして今私たちも歩いていることがとても感慨深い。
さらに鎌倉街道上道を北上すると、高麗川を渡り(森戸橋)、段丘を掘割りで緩やかにした坂(仏坂遺跡)を上り左へ入り、杜の中の市場神社へ立ち寄りました。市場の名は、九の日に市が立ったことに由来するそうです。境内にはいくつもの社が合祀されています。佐藤館長が詳しく説明してくださいました。境内に珍しい柊の大木があります。なんと葉が丸いのです。しかし小枝を探しよく見と、所々にあの尖った葉がありました。「大きくなると葉が丸くなる、人間と同じ?」と佐藤館長。
再び鎌倉街道を歩くとすぐ道が途切れてしまいました。どうしても古道と同じというわけにはいきません。迂回して鎌倉街道へ。
ここは、『鎌倉街道A遺構』といって鎌倉街道掘割遺構が残っています。手つかずのまま鎌倉街道そのものが地主さんのお陰で今も保存されています。「掘割(ほりわり)」は、段丘などの斜面を掘って道の傾斜を緩やかにするものです。当時の道(遺構)そのものはこの下に埋まっているそうです。
A遺構からさらに進むと<ほぼ>鎌倉街道をたどることができます。途中渡った高麗川とこの先の越辺川の間の最も高い場所、つまりそこまでは上りで、そこからは下るのです。実際に歩いていてもそれほど傾斜は感じません。佐藤館長の説明がないとわかりませんでした。左手には太陽光発電パネルが並んでいますが、道路に近いパネルの台座を見ると、コンクリートで土台が作られています。本来の鎌倉街道はパネルに一部かかっているそうで、事業者の配慮で下に埋まった古道を壊さぬようにしているのだそうです。
県道川越・坂戸・毛呂山線を渡ると毛呂山町歴史民俗資料館に到着(11:00)
資料館では、「第22回特別展 堂山下遺跡ヒストリア ー渡河点の宿と交通路―」が開かれていました。この特別展を見るのも今回のねらいの一つ。毛呂山町における鎌倉街道上道の魅力の一つが、この堂山下遺跡です。ここは「苦林宿」といい、北を流れる越辺川を渡る地点にあたります。鎌倉街道の交通の要衝となった場所からは、常滑の大きな壺をはじめさまざまな遺物が出土しています。人々が集まり、さらに物も集まり、物流の中継点だったと、佐藤館長が詳しく解説してくださいました。もちろん、これからその場所を訪ねます。
昼食を資料館前庭などで済ませたあと、資料館の北側にある林に向かいました。資料館のすぐ西には鎌倉街道が走っています。林の中に入っていくと、佐藤館長が「この下から石敷が発見されました」と。鎌倉街道B遺跡です。街道の一部に石が敷き詰められていたのです。この石敷遺構は、この先を左に折れて崇徳寺へ向かっているそうで、宗教的な空間を結んでいるのではないかとのことでした。今は石敷は埋蔵され、見ることはできません。
林の中に十字路があり、鎌倉街道から外れて右へ向かいます。いたるところに塚があります。この一帯が「川角古墳群」で、塚は古代の古墳でした。墳丘の上にほこらや庚申塔といった石造物が建てられているものもあります。越辺川周辺には100基あまりの古墳があるそうです。林の中を進んでいくと、水が湧き出ている場所がありました。ここに「諏訪社」があったそうです。このあたりは水も豊富で人々が住むには良い場所だったでしょう。
大類グランドへ入ります。このあたり一帯が堂山下遺跡(苦林宿)です。鎌倉時代後期から室町時代にかけての集落がありました。先ほどの資料館の特別展で見たさまざまな出土品がここからみつかっています。日常使われていた土製の鍋や東海地方の陶器、北九州産の石鍋、中国産の青磁などが出土したことから、人々の交流や物流の場所だったことがわかります。
大類グランドを出て少し歩くと、延慶の板碑の道標が道路の右側にありました。林の中を歩いていくと、大きな板碑が見えてきました。延慶年間に造られた板碑は、もとは崇徳寺跡にあったそうです。崇徳寺跡を発掘調査する際に、この場所に移設されました。「沙弥行真」と「朝妻氏女」の二人の名が掘られていて、生前に建てたものと考えられていますが、なぜか板碑の下から蔵骨器が埋められていたそうです。
「延慶の板碑」から資料館へ戻る道すがら「崇徳寺跡」へ。このあたりも川角古墳群の域で、いたるところに塚が見えます。ここからは13世紀後半から15世紀後半の板碑が多数出土しました。板碑は墓群同士の間に埋められていて、火葬跡などもあったそうです。苦林宿に向かて低く傾斜していて、人々が営む苦林宿からは高い場所にあったことがわかります。
林の中を、資料館へと戻りました。途中先ほどの十字路で、佐藤館長から「石敷」がここから西に折れているとの説明がありました。
一行は、再び資料館へ立ち寄り、佐藤館長にお礼を述べお別れして、帰路、川角駅へ向かいました。
朝から、佐藤春生館長が同行してくださり、道すがらも地域の歴史を解説してくださいました。本当にありがとうございました。そして参加された皆さん、お疲れさまでした。
毛呂山町歴史民俗資料館では、「第22回特別展 堂山下遺跡ヒストリア ー渡河点の宿と交通路―」が、3月9日(日)まで開催されています。この機会に資料館の見学と併せて『鎌倉街道・川角古墳群・堂山下遺跡・延慶の板碑・崇徳寺跡』を巡ってみてはいかがですか?
さて、次回第16回は、3月の桜咲くころに、狭山市を流れる入間川左岸の段丘上を中心に歩きたいと思います。高麗郡建郡時期に重なる集落跡が多数見つかっています。詳しくは改めてご案内いたします。高麗郡建郡の足跡を訪ねて一緒に歩いてみませんか?
高麗1300事務局