【報 告】戦争は異文化接触。そして秀吉の世界征服構想・・・会場の興味を大いに引く  第7回高麗郡中世歴史講演会 3/9(日)

【報 告】戦争は異文化接触。そして秀吉の世界征服構想・・・会場の興味を大いに引く  第7回高麗郡中世歴史講演会 3/9(日)

 2025年3月9日(日)、日高市総合福祉センター『高麗の郷』研修室で、第7回高麗郡中世歴史講演会を開催しました。テーマは、「豊臣時代の近隣世界 その歴史を深掘りする!」。講師に東京大学名誉教授の村井章介先生をお招きして、「異文化接触としての戦争」と題してご講演いただきました。参加しした90名の皆さん最後まで、熱心に聞き入っていました。

会場は、日高市総合福祉センター「高麗の郷」

 講演に先立ち、高麗1300副会長で高麗神社宮司の高麗文康、ならびに日本高麗浪漫学会会長の新井孝重が、主催者として挨拶しました。

高麗1300副会長 高麗文康
日本高麗浪漫学会会長 新井孝重

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 講演では、村井先生が「異文化接触としての戦争」と題して90分にわたり、豊臣秀吉の2度にわたる朝鮮出兵(1592年文禄の役・1597年慶長の役)を、『異文化接触』という視点からお話いただきました。

資料を見ながら村井先生の話を聞く

 まず講演冒頭で、村井先生は、『戦争と文化』は一般的に互いに対極にあるもので、『戦争と文化』は相反するものだという考えがあるが、「文化は、社会を構成する人々によって習慣・共有・伝達される行動形式ないし生活様式の総体、すなわち言語・習俗・道徳・宗教、種々の制度などはその具体例とし、戦争も異文化の接触としての行動のひとつとしてとらえるべき」と、『戦争と文化』について広く定義づけました。

村井章介先生
講演会の様子

 講演では、豊臣秀吉の天下統一後の、朝鮮国への出兵「文禄の役(天正18年:1592年)」前後の具体的な実像について、古文書史料をもとに、中立的な戦争観に立って詳しく話されました。また「1:天下統一から“高麗”(こうらい)へ」と「2:秀吉の世界征服構想」の二つに分けて講義しました。まず、秀吉にとって、国外(東アジア)に向かっての戦争は、全国統一の達成という成功経験をふまえ、国内の統治と論理をそのまま朝鮮国や明、高山国(台湾)にまで押し広げるものであったといいます。韓半島の倭城(日本的な城郭)の実状と共に、戦いにおける残虐な「秀吉軍の鼻削ぎと李舜臣の耳割り」の実体は、戦いの論功を客観的に証明するためにお互いに行っていたと説明されました。

秀吉の朝鮮出兵を「異文化接触」の観点から
メモを取りながら熱心に聞く

 また、秀吉の広くインドまで及ぶ多数の外交文書から、海外に対して日本を「神国」として位置づけ、己を「神の子」とする一方的な口調により秀吉の人物像やキャラクターが分かるものと解説しました。さらに「三国(倭国・朝鮮国・明国)の国割構想」を秀吉がすでに抱いていたという史料も示されました。

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トークセッション「豊臣時代の近隣正解になにがあったのか、その実態を探る」

 講演につづき、コーディネーターに日本高麗浪漫学会会長の新井孝重先生(獨協大学名誉教授)を交え、トークセッションを行いました。村井先生の講演内容をふまえながら「豊臣時代の近隣世界になにがあったのか、その実態を探る」というテーマで、多角的に話題を展開、意見が交わされました。

 特に、秀吉の書状から、秀吉の妻(おね)と共に夫婦で世界を支配するという考えが秀吉にあったことや、他国との外交交渉ではお互いの状況認識の違い、つまり休戦状態から、秀吉の激怒による講和交渉決裂が起こり、再度戦い(慶長の役)が長引いたという話などは、特に参加者の関心を引いていまいた。

最後まで熱心にご参加くださりありがとうございました

 これまで知る機会がなかった豊臣秀吉の「世界征服構想」が明らかになるなど、興味深い話の展開に、参加者の皆さんは最後まで熱心に聞き入っていました。村井先生、貴重なお話をいただきありがとうございました。

 今回のテーマは、「高麗郡」とは離れていましたが、豊臣秀吉が東アジア、さらには東南アジアをどのように見ていたのかを知ることができました。

 日本高麗浪漫学会と高麗1300は、引き続き皆様にとって興味ある有意義な講演会などを開催して参りたいと考えております。
 2025年の「高麗郡公開歴史講演会」は7月13日(日)、また「高麗郡建郡歴史シンポジウム」は12月13日(土)に開催いたします。いずれもテーマは『馬と牧』。お楽しみに!
※ 詳細がまとまり次第、ホームページやチラシ等でご案内いたします。

高麗1300  
日本高麗浪漫学会