高麗浪漫学会通信 創刊号  

高麗浪漫学会通信 創刊号  

高麗浪漫学会通信  創刊号

201451

編集・発行 高麗浪漫学会

〒350-1243 埼玉県日高市新堀855番地3

TEL/FAX:042-978-7432

高麗郡建郡1300年記念事業の一環として平成25年9月8日に「高麗浪漫学会」が設立され、早くも8ヶ月が過ぎようとしています。これまでの高麗浪漫学会の活動としましては、昨年11月30日の「高麗郡建郡1300年歴史シンポジウム」の開催、及びそれに伴う『早わかり高麗郡入門Q&A』の発行をいたしました。シンポジウムは参加者500名と大盛況に終わり、『早わかり高麗郡入門Q&A』もシンポジウムの後に問合せ御要望が多数ございまして急遽増刷しましたが、それも底を突くほどの御好評をいただいております。

今まで、このような高麗浪漫学会の活動を会員のみな様にお知らせする媒体がございませんでした。そこでこのたび、会の活動報告や様々な情報を提供するべく、高麗浪漫学会の会報を発刊することになりました。会員のみな様に御活用いただければ幸いに存じます。また、高麗浪漫学会のさらなる発展のため、今後とも御支援いただけますようお願い申し上げます。   (高麗浪漫学会会長 高橋一夫)

 

《創刊によせて》 なぜ「浪漫」か

  わが国に学会は数々ありますが、「浪漫」が入る学会は類例がないようです。辞書を見ると「浪漫・ロマン」は、①感情的・理想的に物事をとらえること。②夢や冒険などへの強いあこがれをもつこと。③伝奇的空想的な要素をもつ物語とあります。ロマンチストは、①現実を離れた、甘美な空想などを好む人。②夢想家。空想家とあります。もうおわかり頂けたことでしょう。浪漫という言葉は真実を追究する学問と相いれず、学会名になじまないのです。ですから浪漫を冠した学会がないのも当然かもしれません。通常、「ロマンチストですね」という言葉はほめ言葉の部類に入りますが、研究者にとってはそうともいえないのです。

ではなぜ、本会はこうした「浪漫」を堂々と入れて「高麗浪漫学会」と名付けたのでしょうか。第一は、本会は高麗建郡1300年記念事業委員会の事業推進の一翼を担う目的で設立され、活動を通してその成果を歴史・観光・文化事業や地域活性化に役立てることを目的としていますので、他の学会とは趣を異にすることにあります。第二に、設立趣旨から研究者だけでなく、多くの人たちが参加できる会であることが求められている点があげられます。第三は、学問は客観を重視しますが、本会はそれに加え個人の想いや夢といった主観や浪漫も大切にする肩の凝らない会としたいとの思いがあるからです。

高麗建郡に関する研究はそれほど多くありません。まずは建郡に関する研究を深め、高麗郡と関連地域の魅力を引出したいと考えます。ここに「浪漫」を加えることによって、一味違った歴史像を紡ぐことを目指しているのです。                   (高麗浪漫学会会長 高橋一夫)

 

 

《歴史コラム》 若光の薬

高麗神社の祭神であり大宝三年(703)に王姓を賜った高麗王若光について、『大同類聚方』という書物に興味深い記述があります。内容は、若光が伝授した「間善野薬」という薬に関するもので、もとは劉夏林なる人物の処方であったとされます。この薬は、「安太波良病(アタハラヤミ)」という病気に効き目があり、クタチ、オオソミ、ナルハジカミの三種類の材料を粉末にして白湯で服用するというものです。

 

『大同類聚方』巻之四十四、阿多波良也民

間善野薬、高麗若光王〈乃〉所伝授〈乃〉方其元〈波〉劉夏林〈乃〉方也。安太波良病盛〈爾〉痛不止者大人小児共〈爾〉与〈流〉方。須久多知、袁々曽美、奈流波自加民。三味〈乎〉粉〈爾〉研〈支〉白湯〈爾天〉与。

(書き下し)アタハラヤミ

間善野薬、高麗若光王〈の〉伝授する所〈の〉方にして其の元〈は〉劉夏林〈の〉方なり。アタハラ病、盛り〈に〉痛みて止まざれば、大人・小児とも〈に〉与う〈る〉方。スクタチ、オオソミ、ナルハジカミ。三味〈を〉粉〈に〉研〈き〉白湯〈にて〉与う。

 

『大同類聚方』は日本各地の薬やその処方を採録した書物で、大同三年(808)に平城天皇の詔によって編纂されました。しかし、そのほとんどが散逸してしまい、完本は残っていません。現存する写本は主に江戸時代のもので、これらは後世の仮託本すなわち偽書とされています。だからといって、全ての記述が偽作かといえば、けしてそうではなく、恐らくこのなかには大同年間の実態も含まれていると思います。ただし、どの部分が真でどの部分が偽かという判断ができないので、扱うのが難しい史料とされています。また、偽書であったとしても存在しない架空の薬を記載したとは思われないので、江戸時代には『大同類聚方』に記された薬がその地に伝わっていたとみてよいでしょう。写本のもっとも古い年紀は応安四年(1371)なので、部分的にはそのころまで遡るということになります。

それでは若光の薬について詳しく見ていきましょう。「間善野薬」の読み方は、訓注などが振られていないためよくわかりません。「まよのくすり」とでも読んだのでしょうか。音で読めば「カンゼンヤヤク」となります。「劉夏林」という人物についてもよくわかりません。『大同類聚方』の研究者である槇佐知子さんは、『魏志倭人伝』に見える「劉夏」のこととしています。「劉夏」は景初二年(238)ごろに帯方郡の太守(長官)であった人物で、卑弥呼からの使者を魏の都まで送らせたとされます。帯方郡の地は魏→西晋→百済と変遷し、五世紀後半からは高句麗の支配下にありました。一方、若光は高句麗からの渡来人ですから、「劉夏林」が「劉夏」であったとすれば、魏の「劉夏」所伝の「間善野薬」が、やがて高句麗の若光に受け継がれて日本に伝わったと考えることができるでしょう。

次に「アタハラヤミ」という病気ですが、雄島薬の記述に「アタハラヤミ〈は〉胸上堅〈く〉痛み甚だし〈く〉小腹〈に〉引〈き〉疼〈く〉」(アタハラ病は胸もとが堅くなって激痛があり、下腹のほうへひきつるような疼痛がする)とあり、水戸薬の記述に「アタハラヤミ〈は〉胸上堅〈く〉痛〈み〉甚だし〈く〉日夜止〈ま〉らず、気痞え〈り〉、脚膝冷え〈て〉食〈を〉吐き、或い〈は〉苦汁〈を〉出し〈て〉」(アタハラ病は胸もとが堅くなり、昼夜激痛が止まらず、気がつかえ、脚や膝が冷えて、食物を嘔吐したり、苦い汁を吐いたり)とあります。槇佐知子さんの解説・注釈によると、「疝(セン)」のことで、「癪」に通じるところがあり、腎臓、肝臓、泌尿器科の結石や、フィラリア、寄生虫病などの病気であるとされます。

三種類の薬材については、酸漿(サンショウ・ほおずき)の和名をスクチといい、胸腹の病気や癪などの治療に用いられることから、「スクタチ」はこれのことであろうとされます。「オオソミ」は、『大同類聚方』巻之一、用薬類之一の山草部に「オホソミ、味蘞〈く〉少し〈く〉無毒に〈して〉五月に花を開き、八月に実を結ぶ。九月に根〈を〉採り、陰乾〈にして〉用う。□□国〈に〉多〈く〉出〈ず〉」(オホソミ、味はえぐみがあり、無毒で、五月に花が咲き、八月に実をつける。九月に根を採取して陰干しにして用いる。□□国で多く産出する)とあり、虎掌(コショウ)か天南星(テンナンショウ)のこととされます。虎掌は現在の何であるかわかりません。天南星はサトイモ科多年生草本のナガヒゲウラシマソウのことです。「ナルハジカミ」は蜀椒(ショクショウ)のことで、ミカン科落葉低木トウザンショウの果実で花椒ともいいます。

残念ながら「間善野薬」の項には、国名や郡名などの地名が記されていません。薬材の産地からその地を特定するのも難しいといえます。また、日高市周辺には「間善野薬」のような民間療法は伝わってはいません。しかし、若光が伝授した薬なので、若光に縁のある武蔵国高麗郡もその候補地の一つとして挙げることができるでしょう。                (高麗浪漫学会理事 赤木隆幸)

〔参考文献〕

大神神社史料編集委員会『校注 大同類聚方』1979年

槇佐知子『全訳精解 大同類聚方』新泉社、1992年