【報告】白村江の戦から、当時の日本の様子を知る ~第9回高麗郡公開歴史講演会(7/27)より
2024年7月27日(土)、日高市総合福祉センター「高麗の郷」研修室で、第9回高麗郡公開歴史講演会を開催したところ、猛暑の中にも関わらず128名が参加(事前申込は150名)しました。講演の内容が、皆が知る「白村江の戦」だったことから、大変関心が高かったことが伺えます。
講演会に先立ち、主催者から、高麗1300会長の大野松茂ならびに日本高麗浪漫学会会長の新井孝重が挨拶しました。
講演会の講師には、東洋大学教授の森公章(もりきみゆき)先生をお招きし、「白村江戦余滴ー亡命百済人・高句麗人の到来とその行方ー」と題して講演いただきました。森先生は、古代日本史ではとても知名度が高く、執筆された書籍も多数あり、多くの皆さんが先生の話に興味を持っていたのではないでしょうか。
森先生は、3つの項目に分けて話しました。まずは「百済復興運動救援・白村江戦と倭軍の撤退・亡命百済人の来倭」。660年に百済が滅亡すると、倭国は百済復興運動を支援して韓半島へ派兵しました。そして663年の白村江の戦いで、唐と新羅が連合する水軍との2日間にわたる海戦の末、倭軍は大敗し百済は完全に滅亡しました。森先生は、日本書紀の記述を示しながら、660年に滅亡したの百済への軍事援助や、663年の白村江の戦いの敗北やその後の撤退について解説しました。また、その時の百済人の行動選択は3つあり、隣国の高句麗に逃走して唐・新羅軍と戦闘継続、旧百済領に留まってその下で活動、そして倭国への亡命だったと定義しました。ここで、手塚治虫『火の鳥』の解釈も紹介しました。
続いては「亡命百済人の役割」。森先生は、倭国へ亡命した百済王族や貴族・知識人たちは中央の朝廷の近くで、その後の日本の律令国家の構築に大きく貢献したと解説しました。文献等から、亡命百済人の動向とその役職を説明しました。
最後に「高句麗へのまなざしと亡命高句麗人の動向」。668年に高句麗が唐・新羅軍に敗れ滅亡すると、やはり多くの亡命高句麗人が倭国へ逃走してきたことを文献史料をもとに解説しました。しかし、亡命高句麗人は中央の朝廷近くよりも東日本に移住させられたことから、文献等の記述が特に少ないとのこと。その中で、滅亡前に高句麗使として倭国に救援依頼にやってきた玄武若光や、716年の高麗郡建郡について文献をもとに解説しました。また、中央で活躍した高麗福信の祖父や叔父の行文にもふれ、高麗郡建以前から武蔵地域、多摩郡狛江郷に居住した可能性を示しました。亡命百済人に比べて亡命高句麗人が中央で活躍した事例が少ないことから、亡命高句麗人の平安時代以降の活動や地域支配のあり方との関係の解明が今後の課題であると示しました。
森先生の講演の後、恒例のトークセッションでは、コーディネーターに日本高麗浪漫学会副会長の中野高行(大東文化大学講師)、コメンテーターには同副会長の荒井秀規(明治大学講師)が加わり、議論が交わされました。講演内容をうけて、特に「百済や高句麗が滅亡したあと、どのようなルートで亡命してきたのか」の課題が出され、今後の研究上の必要性が強調されました。
最後に、参加していた日本高麗浪漫学会の柿沼亮介研究員(早稲田大学高等学院教諭)と、当会渡来文化大賞選考委員を務めていただいている酒井清治先生(駒澤大学名誉教授)にコメントをいただきました。
今回の講演会によって、「白村江の戦」がその後の日本にいかに大きな影響を与えていたのか、また亡命百済人や亡命高句麗人の活躍や行方について深く知ることができました。参加者は講演後も帰る人はほとんどなく、最後まで熱心に聴きいっていました。
猛暑の中、地元はもとより遠方からもご参加くださり、誠にありがとうございました。これからも、皆様に有意義な講演会等を実施して参りますので、今後ともよろしくお願い申し上げます。
高麗1300・日本高麗浪漫学会