【イベント】<参加募集締め切りました> 今年の古代渡来文化遺跡を巡るバスツアーは、下野国(栃木県)へ 10/7(水)

【イベント】<参加募集締め切りました> 今年の古代渡来文化遺跡を巡るバスツアーは、下野国(栃木県)へ 10/7(水)

<参加募集締切>

本日、お陰さまで参加申込が募集人数に達しましたので、募集を締めらせていただきます。お申込み頂きました皆様、ありがとうございます。

2020年8月27日(木)

(一社)高麗1300 事務局

 

渡来文化の歴史を訪ねる旅シリーズ

下野国(栃木県)古代渡来文化遺跡を巡る日帰りバスツアー

 

昨年好評いただいた上野国へのツアーに続いて、今回は「東山道」でさらに進んだ『下野国(栃木県)』へ参ります。

今回は少し長距離の移動となりますので、多くを訪ねることはできませんが、下野国でもっとも押さえておきたい2つの遺跡を訪ねることにしました。

古代下野国は中央と密接につながっていました。と同時に渡来文化、とりわけ新羅との関係も見えてきます。その証の一つとなるのが日本三戒壇の一つ、下野市の下野薬師寺跡です。国指定文化財として保存され、一部回廊が復元されています。また遺物などを展示する歴史館もあります。下野国を訪ねるならまずは下野薬師寺でしょう。

そして、日本三古碑の一つ、那須国造碑も気になるところです。思い切って大田原市まで足を延ばして訪ねることにしました。今でも克明に記されている碑文はもちろんのこと、この碑を残させたのが水戸光圀公であることも興味深い点です。今では笠石神社のご神体として祀られていて、鈴木宮司さんが詳しくお話してくださいます。そしてそれらにまつわる展示は、近くの大田原市なす風土記の丘湯津上資料館で見ることができきます。いずれも各教育委員会の担当の方に解説をお願いしております。

皆様のご参加お待ちしております。なお、新型コロナウイルス感染拡大防止のため、バス乗車人数を減らしております。

昨年の様子(観音山古墳)

八幡塚古墳(保渡田古墳群)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

<募集要項>

日程・・・ 令和元年10月7日(水)
料金・・・ おひとり8,000円

※料金に含まれるもの:貸切バス代、昼食代、観覧料、高速道路代、旅行傷害保険・講師料・事務諸経費等

集合・・・ ①高麗神社 7:30発

※お車でお越しの方は高麗神社駐車場(無料)が利用できます。

 ②JR高麗川駅 7:50発

 ③東武東上線坂戸駅南口 8:30発

解散・・・ ③18:00⇒②18:40⇒①19:00着予定

募集人数・・30人程度 先着順(バス座席が埋まり次第締切り)

※コロナ対策のためバス座席制限設定

※ご家族やご友人などは隣席、お一人の場合は2座席使用となります。ただし出来るだけご希望に添えるように配慮いたします。

参加資格・・一般社団法人高麗1300または日本高麗浪漫学会会員ならびに同会主催事業に参加されている方とそのご家族等(メルマガ会員のみの方は対象外です。ご了承ください。)

特記事項

・新型コロナウイルス感染拡大防止に対してご協力いただける方

・当日朝、発熱等体調不良の場合は、無理せずに参加取りやめの判断をお願いいたします。

・移動に時間を要するため、昼食はバス車内でのお弁当となります(お弁当はご用意します)。

・その他詳しくは募集チラシをご覧ください。

<お申込みの流れ>

① 必要事項をEメール、FAX(チラシご利用ください)、電話にて事務局へ申込み

※事務局常駐しておりません。不在の場合あり。

② お申込みの方に、参加費納入ご案内(郵便振替用紙)をお送りいたします。

③ 郵便振替で参加費を納入ください。

④ 納入確認後に受付完了のご連絡(郵送または電話)をいたします。

 

申し込みは・・・ 一般社団法人高麗1300事務局

電話:042-978-7432  FAX:042-9787452

E-mail:info@komagun.jp

チラシはこちら・・・渡来文化の旅下野国チラシ

 

<訪問地>

①下野薬師寺跡(下野市)

下野薬師寺跡

復元された回廊

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今から1300年前の7世紀末頃が創建と考えられます。730年頃には、国の出先機関である「造下野国薬師寺司(ぞうしもつけやくしじし)」が設置され、国家事業として造営が進められます。749年には墾田500町が認められ、法隆寺などの中央の諸大寺と同格に列せられました。その後716年には僧の受戒のための戒壇が置かれ、東大寺、筑紫観世音字と並ぶ三戒壇の一つに数えられました。昭和41年からの発掘調査で、東西250m、南北360mに及ぶ塀や、100m四方の回廊など、東国最大級の伽藍規模を持つ寺院であることが確認されました。創建時の塔が9世紀頃に焼失したあとに、回廊の東外側に再建されるなど、幾度か改修があったこともわかりました。

薬師寺跡に隣接する下野薬師寺歴史館では、発掘調査によって見つかった瓦などの出土遺物や文献史料、復元模型などが展示されています。

ではなぜ下野国に東国随一の寺院が建てられたのか・・・それは現地で。

再建の塔跡

下野薬師寺歴史館

 

 

 

 

 

 

 

 

 

②那須国造碑(大田原市・笠石神社)

笠石神社

詳しく解説してくださる 伊藤宮司さん

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ヤマト王権は各地の有力豪族を国造(くにのみやっこ・古代の地方官)に任命し、地方支配を取り仕切らせました。現在の栃木県は那須国造と下毛野(しもつけぬ)国造がいました。那須国造碑は国造である那須直韋提(なすのあたいいで)が永昌元年(持統3/689)に評督(こおりのかみ・ひょうとく/地方行政組織の長官。評は後の郡)に任命されたことが記されています。さらに、碑文中の「永昌元年」は、中国や朝鮮半島で使用された年号であったり、中国の人物の表現を用いたりしていて、碑文の書体は唐風以前の六朝風(北魏風)とされています。このようなことから、渡来人の関与があったと思われます。

日本三古碑のひとつ、那須国造碑

碑は笠石神社神殿に祀られている

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

また、那須国造碑と、侍塚古墳は、徳川光圀の命によって、発掘調査が行われ保護されました。日本で初めての学術的な発掘調査と言われています。湯津上資料館では当時の調査についても知ることができます。

 

以上